ヘブル1章

1:1 神は昔、預言者たちによって、多くの部分に分け、多くの方法で先祖たちに語られましたが、

・「多くの部分に分け」→様々な時に少しずつ。

1:2 この終わりの時には、御子にあって私たちに語られました。神は御子を万物の相続者と定め、御子によって世界を造られました。

 終わりの時には、御子にあって語られました。このことは、二章で、御子によって語られた救いの素晴らしさとして取り上げられています。預言者ではなく、御子が直接語られた尊さが示されています。

 御子は、神が万物の相続者に定められました。神は、御子によって世界を造られました。いわば設計されたのは、神であり、傍らにあってこれを形造る者でした。

箴言

8:27 主が天を堅く立てられたとき、わたしはそこにいた。主が深淵の面に円を描かれたとき、

8:28 上の方に大空を固め、深淵の源を堅く定められたとき、

8:29 海にその境界を置き、その水が主の仰せを越えないようにし、地の基を定められたとき、

8:30 わたしは神の傍らで、これを組み立てる者であった。わたしは毎日喜び、いつも御前で楽しんでいた。

--

・「世界」→時代。世代。世。

1:3 御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。御子は罪のきよめを成し遂げ、(その理由のために)いと高き所で、大いなる方の右の座に着かれました。

 御子は、神の栄光の輝きをもって現れた方です。目に見えない神の持つ栄光を身をもって現しました。その程度の偉大さを輝きと表現しています。

 また、神の特性の完全な現れです。神の特性とは、神としての性質の全てです。その特性を完全に現されたのです。愛、神聖さ、義などの神の性質です。それを人として歩まれる中に現されました。

 御子によって万物は、保たれています。その言葉によって保たれます。

 神ご自身の栄光を現しつつ、御自分を捨てて罪の清めを成し遂げられました。それゆえ、父の右の座に着かれたのです。父については、「大いなる方」と表現されていて、「いと高き所」という表現とともに上げられた座の偉大さが、示されています。

・「栄光」→神の無限の本質的な価値を伝えること。意見、見解。旧約の栄光と一致する。

・「本質」→G5287特性。

1:4 御子が受け継いだ御名は、御使いたちの名よりもすばらしく、それだけ御使いよりもすぐれた方となられました。

 御子が受け継いだ御名は、三節に記されていることです。名は、特性を表し、行いも含んでいます。以下の節では、御使いより優れた方であることが列挙されています。

・「素晴らしい」→優れている。

・「優れた方」→より優れた方。偉大な方。

1:5 神はいったい、どの御使いに向かって言われたでしょうか。「あなたはわたしの子。わたしが今日、あなたを生んだ」と。またさらに、「わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる」と。

 まず、御子は、神にとって、本質を同じくする神であることです。詩篇二篇の言葉が引用されています。その注目点は、「生んだ」ことです。これは、造ったのではないことを表現しています。続く引用も、父と子の関係であることを示しています。また、子であることは、相続者を意味します。

 なお、使徒十三章にパウロによってこの聖句が引用されています。『あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。』と。よみがえりによって公に神の御子と証しされた方によって祝福が与えられることを示しています。その祝福を与える方は、神と本質を同じくする神であることを明確にしたのです。それで、詩篇二篇の預言は、イエス様によってもたらされる祝福の預言であることが示されています。すなわち、イエス様が統治者となられることです。

 なお、この引用句では、よみがえりを直接説明しているのではありません。「生んだ」ことをよみがえらせたことに関連づけているのではなく、本質を同じくする神であることを示しているのです。

1:6 そのうえ、この長子をこの世界に送られたとき、神はこう言われました。「神のすべての御使いよ、彼にひれ伏せ。」

 御使いについては、御子と比較されています。神は、神の全ての御使いに対して、人となられた神の長子にひれ伏すように言われました。御使いは、御子を神として崇めるのです。

1:7 また、御使いについては、「神は御使いたちを風とし、仕える者たちを燃える炎とされる」と言われましたが、

1:8 御子については、こう言われました。「神よ。あなたの王座は世々限りなく、あなたの王国の杖は公正の杖。

1:9 あなたは義を愛し、不法を憎む。それゆえ、神よ、あなたの神は、喜びの油で、あなたに油を注がれた。あなたに並ぶだれよりも多く。」

 御使いについては、神の業のために風として用い、仕える者を燃える炎とすると言われ、神の道具として用いることが示されています。

 その一方で御子については、王としてその統治を委ねましたが、その統治を喜ばれたのです。

1:10 またこう言われました。「主よ。あなたははじめに地の基を据えられました。天も、あなたの御手のわざです。

1:11 これらのものは滅びます。しかし、あなたはいつまでもながらえられます。すべてのものは、衣のようにすり切れます。

1:12 あなたがそれらを外套のように巻き上げると、それらは衣のように取り替えられてしまいます。しかし、あなたは変わることがなく、あなたの年は尽きることがありません。」

 万物は、主によって造られました。それらは、滅びますが、主は、変わることなく、年は尽きません。永遠の存在者です。これは、「またこう言われています。」と記されていて、御子のことです。

1:13 いったいどの御使いに向かって、神はこう言われたでしょうか。「あなたは、わたしの右の座に着いていなさい。わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまで」と。

 神の右の座に上げられた方は、御使いではありません。

1:14 御使いはみな、奉仕する霊であって、救いを受け継ぐことになる人々に仕えるために遣わされているのではありませんか。

 それに対して、御使いは、救いを受け継ぐ人々に仕える者たちです。そのために、遣わされたのです。